アキレス健を伸ばしていた！　

マダムの声は、上品なアルト気味のあでやかな音色。
スレンダーな四肢に艶やかな黒髪、鼻筋の通った凛とした顔には上品なサングラス。
この蒸し暑いのに何故か涼しげな印象を与えるたたずまい。
その黒髪といったら、シャンプーのCM的な艶やかさで、肩を越えたあたりでウェーブがかりながらそよ風にでもゆられているような爽やかさ。
汗一滴さえも、かいていないようにも見える。

おかしい。
どうにも腑に落ちない。

よほど自分は近寄っていって、なにもそんなところにまで生活の余裕さをかもしださなくてもよろしいではないですか暑いのですから暑そうにしましょうよマダム自然の摂理に反した行動とっておりますと生理的によろしくないとワタクシ思うあるよと執事風に忠言しようかと思ったがいかにも胡散臭いので、よした。

ともかくそんなふうに、どこをどうみたってクールなのだ。
そう感じさせるのもセレブの技の一つなのだろうか。
いや、こういう仕草を身につけたものだけが、セレブになりうるのではなかろうか。

熱中症うんぬんの前に頭痛くなりそうなので考えるのは、よした。

その間も、マダムのアキレス健は伸びたままだった。

おそらく相当な敏腕キャリアウーマンなのだろう
何やら商談の話をしているようだ。

アキレス健を伸ばしながら！

あ、向きを変えた。
エェそうでしょう右アキレスの次は左アキレスを伸ばしたいものですわかりますよマダム。
しかしその踵の返しようが、まるで平面紙人形が反転するようにクルッと、マッハの切り返しであった。

左アキレスもやはり伸びている。
今たしかに伸びている。

自分はおののきふるえた。

まもなくして、商談が成立したのか、
マダムは勝ちほこったような表情でM字開脚じゃなくて普通に伸脚。
なにやらハンカチを取り出し、額や首まわりをぺたぺたと拭くと
軽い足どりで歩き去って行った。
どうやら、汗はかいていたらしい。
同じ人間でよかった。

その一連の行動は今もって謎である。

ひょっとして……、
今からタイトなジーンズを買おうとしているのに試着室で万一足がつってしまったらこれまで築き上げてきたクールネスが台無しだわ表参道ヒルズには金輪際来れないわオモサンの駅にも降りられないわトラウマだわもういっそのこと関西に移住して芦屋マダムにでもなろうかしらとでもいうのかマダムアキレス。
もしくは、その自慢の美脚の裏スジを伸ばしきったところに晩夏の悲しげな蚊のためにしばしの憩いの場を作ってあげたかと思いきや、まな板の鯉を見るようにシメシメと非情にもぴしゃりと叩きうち、このハイソな表参道ヒルズにはびこる忌々しい下衆蚊どもを全面駆除しようという魂胆なのかマダムアキレス。
となると、貴女は実はセレブのふりした表参道ヒルズきっての掃除婦なのではないですか目黒世田谷渋谷品川港区を統轄する掃除婦集団のヘッド、掃除婦長なのではないですかマダムアキレス！

ふと、あたりに静寂がおとずれた。
聴こえるのは、かすかな低周波のウナリのみ。
回転数のやたら遅いテープのように低くゆがんだ街の音だ。
道ゆく人々の動きもスローモーション映像のように鈍い。
あらゆる事物が残像をたなびかせながら遷移してゆく。。

耳元で声がした。
「あなたは…、どこか掃除したいところはありますか？」
「では、ぼくの過去を」

その日、自分は消化不良に表参道を去った。


ではまた。

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